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2021.04.13
新生活、中野へようこそ!~中野の歴史をご紹介します~
4月から中野で新生活を迎えた皆様、ようこそ中野へ!
今回は中野区の事をより深く知ってもらうため、山﨑記念中野区立歴史民俗資料館(江古田4丁目)の常設展示と共に中野区の歴史をご紹介致します。
《遺跡》
さて、中野区にはたくさんの遺跡がある事はご存知でしょうか。
「中野 遺跡」と検索するとたくさんヒットします。
縄文時代
弥生時代
竪穴住居の集落があった現平和の森公園付近は近くに川があり、丘になっていた為住みやすい場所だったようです。
《土地の移り変わり》
平安時代の終わり頃武士団の勢いが強くなり、江戸氏・豊島氏が武蔵野の開発にあたり中野はその支配下に属していました。文明9年(1477)に太田道灌が豊島泰経・奏明との間で行われた江古田原沼袋の合戦で豊島氏を破り、武蔵野の支配権を得ました。
江戸初期 徳川幕府の開府に至り江戸近隣の郷は整備され、中野区域は、中野・本郷・本郷新田・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の12村がありました。
《交通・産業の発展》
江戸時代初期には青梅街道が整備され、新たに中野村が出来ました。青梅街道には江戸への物資の輸送や行楽地へ向かう街道として江戸との関係を深めていきました。
様々な物資が集まり、また神田川の淀橋付近に水車がある事により蕎麦や麦などの製粉業が盛んに行われていました。
資料館の入り口には本町1丁目の石森製粉所で使用されていた石臼が置かれています。
かなり大きな石なので、どうやって動かしていたのか気になりますね。
《中野区と動物の意外な接点》
元禄8年(1695)には第5代将軍徳川綱吉によって制定された生類憐みの令に関連し、現中野セントラルパーク付近に野犬を保護する約28万坪の御囲を作りました。旧町名の「囲町」はこれに由来します。
8代将軍・徳川吉宗に代わると鷹狩りの文化が復活し、現在の桃園付近を気に入った吉宗園」は後に庶民に解放され、現在の花見の先駆けとなりました。
享保13年(1728)、当時珍しい動物であった象がベトナムから日本へやってきました。
鎖国中だったため、長崎に降り立った象はなんと歩いて江戸まで移動したそう。
今でも朝日が丘公園(本町2丁目)には象小屋跡があります。
《学校・子どもたちの様子》
明治5年(1872)には学制がしかれ、明治8年に現中野区内で初の公立小学校「桃園小学校」が開校しました。
空襲で大きな被害を受けた中野区。昭和19年には学童疎開が始まり福島県・長野県・山梨県に移り住みました。
その頃の学童による日誌等の資料も見る事ができます
《現代の発展》
昭和30年代には三種の神器と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫が登場しました。
同じ頃中野駅北口から繋がるショッピングアーケード(現中野サンモール商店街)が完成しました。
現在の中野区のランドマークである中野サンプラザが昭和48年(1973)竣工、昭和41年(1966)に中野ブロードウェイが開業。サブカルチャーの街として栄えています。
そして、駅前の開発が進み、2012年に中野セントラルパークが竣工しました。
Googleマップでは中野セントラルパークが出来る前の中野の様子も見る事が出来ます。
皆様、いかがでしたか?
ここではまだまだご紹介しきれない程、中野区は歴史のある街なので是非皆様でも調べてみてください。
他にも中野の歴史をまとめた記事がありますので、是非ご覧ください。
・中野セントラルパークや周辺の歴史を紐解く
その1
中野セントラルパークや周辺の歴史を紐解く(その1)その2
中野セントラルパークや周辺の歴史を紐解く(その2)・中野区観光協会サイト まるっと中野 https://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/history/ 今回取材にご協力いただいた山﨑記念中野区立歴史民俗資料館では現在、旧江古田村名主であった山﨑家から寄贈された作品が展示されています。